コラム第2回「《ラプソディー・イン・ブルー》と《キューバ序曲》」
文:本田悠人(音楽ライター)
前回はガーシュウィンの生い立ちについて書いたが、今回は演奏される2曲について触れたいと思う。
ところで、シエナ・ウインド・オーケストラ(以下SWO)の今回の定期演奏会は12月13日とのことだが、そこから数えてちょうど80年前の同じ日に、《パリのアメリカ人》が初演(ウォルター・ダムロッシュ指揮ニューヨーク・フィルハーモニック)されたというのは偶然の一致であろうか。
いっそのこと今回はオール・ガーシュウィン・プログラムでもよかったのではないかと思うが、だがしかしそれは困難なものであったといえよう。
というのも、ガーシュウィンは少年時代から膨大な数の曲を書いてきたとはいえその大半が舞台や映画のための歌曲であり、純粋な器楽作品はそんなに多くないのである。
前回同様参考にしている本の作品表にあって、歌曲25ページに対して器楽作品はわずか1/2ページであり、さらにその中で独奏楽器を伴わない合奏作品は室内楽を含めても5曲のみなのである。
その5曲の中で、《パリのアメリカ人》と同様、当初から独立した管弦楽作品として書かれたのが、今回SWOが演奏する《キューバ序曲》なのである。
1932年2月、33歳のガーシュウィンは友人たちと共に休暇で訪れたキューバで現地の音楽に触れ、またそこで使われる民族楽器に興味を持ったようである。そしてその中からクラベス、ボンゴ、ギロ、マラカスを用い、あとは通常編成のオーケストラという作品が出来上がった。
その初演は同年8月15日。会場はニューヨークのルイゾーン・スタジアムであった。
ガーシュウィンの作品がこの会場ではじめて流れたのは、彼自身がはじめてソリストとして登場した1927年のことであったが、1932年のコンサートは事情が違っていた。
冒頭で述べたことと矛盾するように聴こえるだろうが、すなわち「オール・ガーシュウィン・プログラム」なのであった。
《キューバ序曲》とともに《パリのアメリカ人》が演奏され、さらにはガーシュウィンのピアノで《ラプソディー・イン・ブルー》《セカンド・ラプソディ》、そしてオスカー・レヴァントのピアノで《ヘ調の協奏曲》が演奏されたのである。
観客は17,845人、それでも会場に入れなかった観客が5,000人もいたというから驚きである。
だがしかし、ガーシュウィンはこの日の《キューバ序曲》の演奏が不満だったようで、というのも野外演奏である上にスタジアムの横を走る道路の騒音で、リズムがうまく機能しなかったからだと考えた。
そこで11月にメトロポリタン歌劇場で作曲者の指揮により再演され、ようやく満足が得られたようである。
それにしてもルイゾーン・スタジアムでの演奏会、ガーシュウィンが主役であるから許されるものの、ピアノ協奏曲ばかりというのはすごいものである。
だからというわけではないだろうが、今回SWOが演奏するのはその3曲の中で、そしてガーシュウィンの曲の中で最も有名な作品、《ラプソディー・イン・ブルー》である。
すでに《スワニー》など歌曲の作曲家として頭角を現していたガーシュウィンであったが、1924年時点ではまだ自身でオーケストラ曲を書くほどには楽器法に熟知していなかったようである。
後期の作品でもまずピアノで作曲して、その後オーケストレーションするという手法がとられたが、《ラプソディー》にあっては6歳年上の作曲家、ファーディ・グローフェ(1892-1972)の協力が不可欠であった。
今日よく演奏されるのは1942年のフルオーケストラ編曲であるが、1924年2月12日の初演では23人のバンドとピアノに合わせてオーケストレーションがなされた。
この23人というのは初演を行ったホワイトマン楽団の人数であるが、通常は9人のみのダンスオーケストラなのである。それがなぜ増員されたかというと、《ラプソディー》初演当夜の演奏会は『現代音楽の実験』と題され、他に演奏された22もの作品を演奏するのにそれだけの人数が必要であったためだそうだ。
さらにこの初演には主催者ホワイトマンの招待でラフマニノフやストコフスキーといったいわゆるクラシック音楽の大物も列席しており、他方バーリンやカーンといった顔ぶれの作品も演奏されたため、舞台音楽の分野での仲間たちも多数居合わせたのである。
初演直後から大変な反響を呼んだこの作品は、すぐに繰り返し再演され、1924年4月21日にはクラシックの殿堂・カーネギーホールで演奏されたのである。
この時まだ25歳の若者は、しかしこの成功に怠けることなく、たくさんの仕事をこなし、多くの作品を世に送り出していくこととなった。
だがしかし、1934年の暮れごろから変調がガーシュウィンを襲う。それでも精神分析医ジルボーグ博士の治療を受けるなどしながら創作を続けた。
が、1937年になるとめまいの発作や嗅覚異常を起こすようになり、ついには7月9日昏睡状態に陥ってしまったのである。
アメリカの才能を救うため、海軍が出動してまで神経外科医の第一人者が呼び寄せられたが、しかし医師の到着よりも早く病状が進行してしまい、手術の甲斐なく7月11日ジョージは帰らぬ人となってしまった。
先に述べたように純粋な器楽作品の数は僅かであるが、しかしその功績は音楽史上大変重要なものであるとともに、人々の心には彼の歌曲が、そしてそこから浸透したジャズナンバーが生きづいているのである。
今回のSWOの演奏会はあえて区別するならばクラシックなスタイルで行われるが、ジャンルを問わないSWOならではのジャズ・ステージというものも聴いてみたいものである。《ストライク・アップ・ザ・バンド》や《サマータイム》など、佳曲ぞろいのガーシュウィンであるから。
〔参考文献〕
ハンスペーター・クレルマン著(渋谷和邦 訳)
「大作曲家 ガーシュイン」〔音楽之友社〕
※なお本文中、一部を除いて「ガーシュウィン」表記に改めていることをご了承頂きたい。





