コラム第1回「ガーシュウィンの少年期」
文:本田悠人(音楽ライター)
ジョージ・ガーシュウィン。
大雑把に書かれた音楽史の年表であっても、必ず採り上げられる作曲家である。
この稿を書くに当たって読み直した本のタイトルも
「大作曲家 ガーシュイン」
とある。
その書き出しからして、「音楽史においてジョージ・ガーシュウィンは特異な位置を占めている。」とあり、続いて「彼は、たやすく作品を生み出し、様々なジャンルのあいだを漂い、様々な方向のあいだで揺れ動き、中間の領域にいるときには、くつろぎを感じていた。」と。
わずか38年という短い生涯の中で、彼はどのような環境に身を置き、また作品を生み出していったのであろうか。
ロシアのユダヤ人、モーリス・ゲルショーヴィチがアメリカに移住し、ニューヨークの教会で毛皮職人の娘ローズ・ブルースキンと結ばれたのが1895年。その後11年の間に4人の子供が生まれ、その2番目の子供がジョージであった。
なお父モーリスは次第にGershvinと名乗るようになったが、ジョージ本人はGershwinと綴り、その後家族もそれを使うようになったそうだ。
なおジョージにはヤコブという名前が与えられたようだが、誰もその名では呼ばなかったようだ。
ジョージと音楽との出会いは偶然というべきであろう。
ハーレムをローラースケートで走り回っているときに耳に止まったのがコインを入れると演奏が流れる自動ピアノであり、ルービンシュタインのメロディーがジョージの心を奪ったのである。
間もなくしてジョージは友人の家でピアノの練習をはじめ、またメロディーを作り出すことをはじめた。
12歳の時にピアノを購入してもらうと、その時には皆が知っているような曲を弾いてみせ、家族を驚かせた。
その後まずは近所でピアノを習ったが、14才のころになるとチャールズ・ハンピッツァーから音楽の基本を学び、バッハ、ショパンから当時まだ存命だったドビュッシーに至るまで、幅広い音楽に親しむようになった。
その一方、彼が隠れて愛好したのが数々の映画音楽やポピュラーソングを生み出した、アーヴィング・バーリンやジェローム・カーンの音楽であった。
高校に進んだジョージはことあるごとに聴衆の前でピアノを弾くようになり、やがて高校を辞めるとブロードウェイ近くの、音楽出版社が集まる『ティン・パン・アレー』で楽譜を実演してプロモーションするピアニストの職についた。
長時間小部屋にこもって演奏し続け、さらに歌う仕事はともすれば神経をすり減らす仕事であるが、この仕事によってジョージは先述のバーリンやカーン、そしてスーザなどの新曲により一層近づくことができたのである。
19歳でこの仕事をやめたジョージは、ピアニストとしての仕事をしつつも、やがて自作の発表にも力を入れてゆくこととなる。
次回は作曲家として成功してゆくガーシュウィン、そして今回シエナ・ウインド・オーケストラによって演奏される曲について見てみようと思う。
〔参考文献〕
ハンスペーター・クレルマン著(渋谷和邦 訳)
「大作曲家 ガーシュイン」〔音楽之友社〕
※なお本文中、一部を除いて「ガーシュウィン」表記に改めていることをご了承頂きたい。
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