コラム第2回「レナードが世に出るまで」
文:本田悠人(音楽ライター)
「生きていれば、来年で90歳になる」
昨年9月に行われたシエナ・ウインド・オーケストラの第24回定期演奏会の舞台上で、マエストロ佐渡裕が語った言葉の一節である。
昨年から見た来年、すなわち2008年の8月25日に生誕90周年を迎える「人物」、レナード・バーンスタイン。(佐渡裕とバーンスタインとの関係については説明を省略させていただく。)
あえて「人物」などと表記したのは彼が指揮者として、作曲者として、ピアニストとして、教育者として、そのいずれにも多大な功績を遺しているからである。
本稿ではその「偉大なる音楽家」が世に出るまでの前半生を振り返ってみようと思う。
1918年8月25日の午後1時ごろ、マサチューセッツ州ローレンスにあるレズニック家で一人の男の子がこの世に生を受けた。
ともにウクライナ北西部からのユダヤ人移民である、26歳のサミュエル・バーンスタインと、20歳のジェニー・レズニックの長男として生まれたその子供は、ルイス・バーンスタインと名づけられた。
ただしあくまでこれは戸籍上の名で、両親は最初から息子を「レナード」と呼んでいたようだ。(その16年後、自ら町役場で手続きを行って正式に改名している)
さて、レナードの幼少期であるが、よちよち歩きの頃から音楽への興味が強かったらしい。ジェニーが実家から譲り受けてきた蓄音機や、ラジオから流れるポピュラー音楽に耳を傾け、リズミカルに拍子をとっていたとの証言がある。
そして毎週末の礼拝においても多くの宗教音楽、さらにはクラシックの調べに夢中になった、とレナードはのちに回想している。
そんなレナード少年であるが、彼が音楽の手ほどきを受けはじめるのはサミュエルの妹クララが、アップライトピアノをレナードの両親に預ける10歳の頃まで待たなければならなかった。ピアノを手にしたレナードは早速近所に住む先生に教えを請うことになるが、その成長はめざましく、よりレベルの高い教師へとバトンを引き継いで行くこととなる。
だがその後のレナードが音楽の勉強ばかりしていたかと言えばそんなことはなく、1929年から1935年までを過ごしたボストン・ラテン・スクール時代、物理学クラブに所属し、学校の文学賞を受賞し、はたまたサマーキャンプでは走り高跳びで入賞を果たすなど存在感のある人物だったようだ。
もちろん音楽活動も活発で、自身で音楽を勉強するための費用を賄おうと近所の子供たちにピアノのレッスンをつけ、週末には友人と3人編成のジャズ・バンドを結成して演奏し、そしてこの頃には作曲も始めている。
1930年代に入るとバーンスタイン家は、夏の間をボストンの南20マイルにあるシャロンの別荘で過ごすようになる。それまでは自宅で妹のシャーリーと連弾をしながら歌っていたのだが、ここでレナードはなんとオペラの上演を行うのである。
シャロンに集う仲間たちを演出し、脚本を書き、音楽をまとめ、上演にこぎつける。そして自らも舞台に上がり、そうでないときはピアノを奏でる。指導者の手を借りるもことなく行われた、その素晴しきオペラの日々はレナードにどれほどの貴重な経験をもたらしたことであろうか。
1935年、ボストン・ラテンをすばらしい成績で卒業したレナードは、ハーヴァード大学へと進学する。
この頃には既にオーケストラと協奏曲を演奏していたりもしたが、とはいえ演奏家だけに進路を絞るほどのレベルには届いていなかったし、また彼自身当時の論文の中で「教養課程の勉強も切り捨ててしまいたくない」と述べている。
通常であればここから彼の交友関係について述べていくのが筋であろう。
最初はレナードの教師として、後年はマネージャーとして半生を共にするヘレン・コーツ、レナードの良きアドバイザーであり友人でもあった作曲家アーロン・コープランド、そして妻となる女優フェリシアなど、枚挙に暇が無い。
だがしかし本稿ではここから乱暴なまでにかいつまんで話を進める。
レナードの育ったボストンのオーケストラ、ボストン交響楽団の演奏会に通いはじめた彼は音楽監督、セルゲイ・クーセヴィツキー(1874-1951)の演奏に衝撃を受ける。
その彼がタングルウッドで行われるバークシャー・ミュージック・センターで指揮のマスタークラスを開講すると聞いたレナードは彼のもとで研鑽を積むこととなる。
あえて蛇足をはさむが、このマスタークラスにはフレデリック・フェネル(指揮者、1914-2004)も参加しており、1942年にはレナードとフレデリックの2人が並んで打楽器の演奏したこともあったようだ。
同1942年末、レナードはニューヨークに居を移し、翌1943年3月30日にはNYで指揮者デビュー、そして夏にはアルトゥール・ロジンスキー(1892-1958)の下ニューヨーク・フィルハーモニックの副指揮者に就任、同11月14日のカーネギーホールで華々しいデビューを飾った。
見事指揮者になったバーンスタインであるが、その合間を縫って作曲に取りかかった。
交響曲第1番《エレミア》やバレエ《ファンシー・フリー》、そしてミュージカル《オン・ザ・タウン》はこの時期の作品である。
その後も指揮者として、作曲者として、八面六臂の活躍を遂げるバーンスタイン。
多忙と、彼自身の性的思考(これはよく知られた話であるが)などに葛藤の日々も続くわけだが、本稿はここで終わりにしようと思う。
本稿を書くに当たっては、ハンフリー・バートン著(棚橋志行訳)の「バーンスタインの生涯」〔福武書店〕を全面的に参考にさせていただいた。
上・下巻合わせて千ページ近くに及ぶ大作であるが、興味をもたれた方はぜひ読んでいただきたい。





