アルフレッド・リードの伝説 REED LEGEND
第1回 《音楽祭のプレリュード》と吹奏楽コンクール
99月17日、作曲家・指揮者のアルフレッド・リードが亡くなった。行年84。
これに関して、多くのバンド関係者が、様々な感慨を抱いていることだろう。もちろん筆者も、その一人である。かつて学生時代は演奏者として、そして今はライターとして、 リード作品には、長いこと、ほんとうにお世話になった。心から感謝を捧げ、ご冥福をお祈りしたい。
私がリードの姿を見た最後は、昨年12月、福島県原町市における「ゆめはっとジュニア・ウィンド・オーケストラ」結成記念式典&コンサートだっ た。リード自身が音楽監督をつとめるバンドの船出であった。もちろん、この時はたいへん元気で、コンサート後のパーティーにも出席し、さかんにメンバーた ちと交流していた。
その後もリードは精力的に来日し、生涯最後の指揮も日本だった。それは、8月末、東京・パルテノン多摩における「ミュージック・キャンプ」のコン サート。聞くところによれば、車椅子でステージに登場して指揮したという。決して体調万全とはいえず、元気もなかったらしい。周囲は「日本へ来るのは、こ れが最後になるのでは」とも感じていたようだ。しかし、一般公募の大編成バンドを前に、《春の猟犬》や《エル・カミーノ・レアル》、新作マーチなどを振っ た。そして帰国後、1ヶ月も経たずに、この世を去った。
このニュースに、多くのアマ・プロバンドやレコード会社が反応した。そのひとつが、シエナ・ウィンド・オーケストラだった。
シエナは、急きょ、次のコンサート(2006年1月13日の第20回定期演奏会)を、オール・リード・プログラムに変更し、一種の追悼演奏会とす ることを発表したの だ。 しかも、演奏予定曲目を聞いて驚いた。《音楽祭のプレリュード》《エル・カミーノ・レアル》《シンフォニック・プレリュード》《オセロ》《春の猟 犬》《ジュビラント序 曲》《パンチネルロ》《アルメニアン・ダンスPART1》《アレルヤ! ラウダムウス・ テ》(パイプオルガン付き)......と9曲も発表されたのだ(《オセロ》は、全曲演奏すれば5楽章ある)。
これ、ほんとうに、1回のコンサートで全部やるんだろうか。いくらシエナが若くて元気イッパイのバンドとはいえ、こんなハイテンションな名曲ばか りぶっ続けでやったら、 頭の血管、切れるんじゃないか。当日の指揮は、金聖響らしいが、長めの交響曲を1曲振るより、疲れるんじゃないか? けっこう長丁場になりそうで、聴衆 だって大変だ。
でも、それほどのコンサートを開催させてしまうだけの魅力を、リード作品が持っているのも事実である。たった1人の吹奏楽作品だけで、コンサートが成立してしまうのだ。
今回から、追悼の意味も込めて、上記シエナの定演曲目を紹介しながら、リードの生涯を簡単にたどってみたい。もちろん、私ごとき道楽者ライター以上に、リードに関する専門家はたくさんいるし、専門書の類だってある。
だが、厚顔を承知で言えば、道楽者ゆえの視点だってあるはずだ。そこから自然に、なぜリードが偉大なのか、なぜ長年にわたって人気があるのかが、如実に浮かび上がってくると思っている。
まず第1回の今回は、《音楽祭のプレリュード》である。
■日本で最初に演奏されたリード作品
そもそもリード作品は、いつ頃から日本で盛んに演奏されるようになったのか。
完全な演奏記録のようなものが手許にないので、とりあえず全日本吹奏楽コンクール全国大会の記録をひもといてみた。
それによれば、コンクール全国大会にリード作品が初めて登場したのは、1965(昭和40)年のようだ。この年、《シンフォニック・プレリュー ド》が「大学・一般向け課題曲」に選ばれたのだ。そして、「大学の部」では関西大学(関西/大阪代表)が、「一 般の部」では、豊島十中OBを中心に編成された公苑会吹奏楽団(東京代表)が1位を獲得した(当時は、金銀銅賞評価ではなく、順位賞だった)。
ところが、この年の記録を見てみると、自由曲の方で、独自にリード作品を取り上げている団体もあった。それは、高知商業高校(四国/高知代表)で、曲目は《フェスティ ヴァル・プレリュード》、つまり《音楽祭のプレリュード》である。
この年以前に、コンクール全国大会にリード作品は見当たらない。もちろん、これ以前にコンクール地方予選や定演・学園祭でリード作品を演奏してい たバンドがあったかもしれないが、おおむね、1965年が、日本における「リード元年」と見て、当たらずとも遠からずのようである。課題曲にも自由曲にも 彼の名前が登場し、おそらく日本中のバンドに、リードの名前が刻み込まれたことだろう。
1965年に課題曲となった《シンフォニック・プレリュード》については次回に譲るとして、この年、高知商業高校が自由曲に取り上げた《音楽祭のプレリュード》、実は、 この曲は、長いリードの吹奏楽人生の中で、最初に成功をおさめた作品でもある。
初演は1957(昭和32)年。いま、オリジナル・スコアを見ると、冒頭に(英文で)「オクラホマ州イニドで開催された3州合同音楽祭第25回記念大会のために書か れ、フィリップス大学バンドに捧げられた」と献辞が記されている。リード自身の指揮で演奏された。
この曲は、すぐには出版されなかった。徐々に評判が広まり、手稿譜で、あちこちで演奏されるようになった結果、1962年になって正式出版された のだ(日本国内版も、同 年に出版されたようなので、1965年に高知商業高校が全国大会で取り上げる以前に、 あちこちで演奏されていた可能性は、十分にある)。
リードが本格的に吹奏楽曲を作曲し始めたのは、1950年代に入ってからのようで、作品番号的にいうと、この《音楽祭?》は、本格的吹奏楽曲としてほぼ10作目にあた る。リード作品史の中では、極めて初期の作品である。
リードは、作曲家としては、叩き上げに近い。ラジオの音楽制作?空軍バンド?ジュリアード音楽院(中途退学)?テレビ・ラジオ局の音楽担当?音楽出版社勤務?ベイラー大 学?マイアミ大学と、現場と研究畑の間を自由に行き来していた。
《音楽祭?》作曲の頃、リードは、音楽出版社「ハンセン」の専属作編曲家として勤務しながら、同社からの出向研修のような形で、テキサスのベイ ラー大学で研究を重ねる一方、同大学オーケストラの指揮者もつとめていた。学術研究・商業出版・現場指導のすべてを、同時に身に付け、こなしていたのであ る。
その初期の作品が、なぜ、いまだに名曲として愛され、残っているのか。
もちろん「いい曲だから」に尽きるのだが、さらに言えば、この曲で、かねてよりリードが構想していた「コンサート(シンフォニック)・バンド・ミュージック」というスタイルが完成したこともある。
そもそも吹奏楽は、いまでこそ「シンフォニック・バンド」とか「ウィンド・オーケストラ」などと称され、そのスタイルは独立したジャンルとして認 知されつつあるが、リー ドが吹奏楽曲に手を染め始めた頃は、まだまだ、そういう認識は低かった。「吹奏楽」= 「(金管中心の)ブラスバンド」であり、ブンチャカドンチャカとマーチを演奏するか、 あるいは、クラシック通俗名曲をアレンジして、あくまで「管弦楽の代行」として演奏するか、その程度の認識だった。楽器編成も、バンドによってまちまち だった。
それを覆したのが、昨年亡くなった指揮者、フレデリック・フェネル(1914?2004)である。
イーストマン音楽院で指導にあたっていたフェネルは、1950年代初頭から「ウィンド・アンサンブル」なる合奏形態を実践した。編成は、原則とし て1パート1奏者(ただ し、クラリネットの各部とテューバなどは2人ずつ)。これによって、精緻で美しい、 オーケストラに匹敵する響きを実現させた。
リードは、この思想をさらに発展、徹底させ、クラリネット・セクションを、高音部から「Es」「B♭1・2・3」「Alto」「Bass」 「Contra Bass」と「5部7声」に充実させることで、オーケストラの弦楽5部に相当する響きを引き出そうとした。そして、この前提で曲を書い た。
このような思想で吹奏楽のためのオリジナル曲を書き、指揮するリードの登場は、フェネルにとっては、まさに「分身」に思えたのではないか。現に、後年、リードは、フェネ ルの後任として、名門マイアミ大学ウィンド・アンサンブルの指揮者に任命されるのだ。
名曲《音楽祭のプレリュード》は、このような、バンドに関するリードの理想的な思想が、ほぼ完成した形で結実した、最初の曲だったのだ。全体が一 種のファンファーレ調であり、文字通り、音楽祭の序幕、開幕を思わせる、華麗で明るいムードに満ちていることも人気の理由であろう。演奏時間が4分そこそ こなのに、なにやら大曲のようなイメージ を放っている点も、うまさを感じさせる。。
この曲でリードが最も腐心したのは、「編成上のバランス」だった。リード自身が、かなり細かく「○○パートは○人」と奏者数を指定しており、計 「65人編成」のために書いたと述べているほどだ。そして、これより人数が多い場合は、どのパートは、どの部分を1人だけで演奏しろとか、逆に少ない場合 はどこを強く演奏しろとか、その指示は微に入り細にわたっている。
それ以前の吹奏楽曲で、ここまで編成や奏者数について具体的なイメージをもって作曲した人は、あまりいなかった。
要するに、現在、私たちが接しているような楽器編成は、ほぼ、リードによって定着したと言っても過言ではないのである。
先述のように、1965年のコンクール全国大会で、日本で初めて、自由曲にリード作品で臨んだ高知商業高校は、今になってみれば、大変な先見の明 があったと言えよう。も しかしたら、この年の「大学・一般向け課題曲」に、リードなる人の《シンフォニック・プレリュード》が採用されたのを見て、いちはやく、この作曲家に目を つけたのかもしれない。
そして翌1966(昭和41)年。再び、自由曲に《音楽祭?》を取り上げて全国大会に臨んだ団体があった。新潟県の新井市立新井中学校(関東/新潟代表)である。
ただし、残念ながら、高知商業高校も、新井中学校も、上位入賞はかなわなかった。
それから4年後の1970(昭和45)年。65年の《シンフォニック?》につづいて、再びリード作品がコンクール課題曲になった。それが、この 《音楽祭?》である。高 知商業高校、新井中学校の挑戦は、ムダではなかった。課題曲に採用される以前から、自 由曲として取り上げ、演奏していた彼らの存在あってこそ、このつながりが生れたような気さえするのだ。
しかも、70年の《音楽祭?》は、「中学の部」を除く全部門のための課題曲に指定されていた。加えて、複数曲選択制ではなく、この1曲のみだっ た。つまり、この年、日本中の、中学校以外のバンド(高校、大学、職場、一般)すべてが、《音楽祭?》を演奏したのだ。その結果、天理高校、関西学院大 学、ブリヂストン久留米、ヤマハ静岡(当時の名称)、尼崎市吹奏楽団といった、いまだにその名を轟かす名門バンドが、続々と金賞を獲得した。
リードの魅力は、日本では、まず、全日本吹奏楽コンクールによって広まったのだった。そして《音楽祭?》は、完全なスタンダード名曲となって、い まに残っている。たとえば、マーチング・バンド版や管弦楽版にもなっているし、同じ吹奏楽版でも、近年ではジェイムズ・カーノウ編曲による「中小編成向け 改訂版」まで出ているのだ。
そのことを揶揄したり、笑ったりしてはいけない。世間には、リードが指定する「65人編成」が組めないバンドは、いくらでもある。それでも、何と かしてリード作品を演奏してみたいと望んでいる。だからカーノウ版には、エス・クラや、コントラバス・クラは指定されていない。ホルンも2番まで。原曲よ り小さな編成でも、リード作品のエッセンスが楽しめるように編曲されているのだ。 つまりそれだけ、リード作品は、スタンダードとして愛されるようになっ たのだ。
次回は、順序が逆になるが、初めて課題曲に採用された《シンフォニック・プレリュード》について述べてみよう。





