コラム第1回「悲劇と哀愁に彩られた《アルメニアン・ダンス》の秘密」【前編】
文:富樫鉄火(音楽ライター)
12月20日(月)、横浜みなとみらいホールで開催される、シエナWO第18回定期演奏会(指揮・佐渡裕)では、アルフレッド・リードの名曲《アルメニアン・ダンス》が演奏される。それも、PART1、PART2通しての、全曲演奏で。
シエナのサイトで実施された自由曲人気投票でも、ダントツの1位を獲得している人気曲である。過去(あるいは今でも)、この曲に必死に取り組んだ、元吹奏楽部員たちの表情が目に浮かぶようだ。
ところで、そもそも、曲名にある「アルメニア」とは、どこにある、どんな国なのだろうか。
この曲に隠された多種多様な要素を、ぜひ、コンサート本番前に、多くの方に知っておいていただきたいと思う。
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「アルメニア共和国」は、地図で見ると、トルコの右隣(東)、イランの真上(北)にある内陸地だ。大雑把にいえば、ロシアの西の果て、といった感じかもしれない。
たいへん歴史のある国で、紀元前2世紀には、すでに「アルメニア王国」が成立していた。
ただし、内陸地ゆえ、周辺国家に翻弄されつづけてきた苦い歴史もある。古くはローマ帝国に始まり、イスラム、トルコ、モンゴル、ティムール、ロシア、ソ連・・・。そのたびに、アルメニアはつらい状況を乗り越えてきた。共和国として、旧ソ連からの独立を宣言したのは、1991年のことだ。
アルメニアといえば、何と言っても、旧約聖書で描かれた、ノアの方舟の漂着地・アララト山を擁していることで知られている。地図上の山頂はトルコにあるのだが、山裾はアルメニアにかけて広がっており、地名としての「アララト」も、トルコではなくアルメニアに存在しているのだ。
この国に、コミタスなる作曲家(1869-1935)がいた。「アルメニア音楽の父」と呼ばれた人だ。
名曲《アルメニアン・ダンス》を語るには、まず、彼のことを述べなければならない。
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コミタスは、本名をソゴモン・ソゴモニアンという。
隣国トルコに、靴職人の息子として生まれた。早くに両親を失ったソゴモンは、母国アルメニアに戻り、神学校に入る。教会で歌う彼の声は、素晴らしい美声だったという。ここで、教会音楽を学び、たちまち音楽の才能を開花させるとともに、地元民謡の収集を始めた。
卒業後は、大聖堂の合唱指揮者となり、「コミタス・ヴァルダペト」と称すようになる。「コミタス」とは7世紀頃、アルメニアに実在した伝説的な賛歌作者の名前。「ヴァルダペト」とは「修道士」のことである(これらの表音や表記は、地域によって異なる。「ゴミダス」と表記する資料も多いが、本稿では、ニューグローブ音楽事典の日本語版に従った)。
引き続き、アルメニア各地の民謡収集に飛び回るコミタスだったが、1896年、ベルリンの音楽学校に留学。かくして彼は、西洋音楽教育を受けた、最初のアルメニア人となるのだった。留学を終えて母国に戻ってからも、民謡収集は続いた。アルメニアの音楽は、どこか哀愁に満ちていて、西洋と東洋の接点を思わせる。そんな母国の音楽を広めるべく、合唱団とともにヨーロッパ各地を廻り、アルメニア音楽の流布にもつとめた。彼の活動は、各地に点在するアルメニア系移民たちの心を癒すに十分だった。
だが・・・。
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悲劇は、1915年に訪れた。
この頃、隣国オスマン・トルコ帝国の干渉に反対するアルメニア人たちの、反トルコ感情、独立気運は最高潮に達していた。危機感を抱いたトルコは、アルメニア人の大量虐殺を開始した。最終的に、200万人のアルメニア人が虐殺されたとも言われている。
コミタスは、虐殺の魔の手からは逃れられたが、国外追放処分を受けた。
結局、パリに亡命すると同時に、肉体と精神の双方を病み、以後、1936年に同地郊外で死去するまで、入院生活を送り、寂しい客死を迎えるのだった。
この大虐殺は、まさに、ナチスによるユダヤ人虐殺に匹敵する惨事であった。最近、『アララトの聖母』なる映画が日本公開され、この中でも描かれていたが、なにぶん、加害者(のはずの)トルコ政府が、いまだに虐殺の事実自体を認めていないせいか、あまり大きくは語られていない。
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彼が収集したアルメニア民謡や、研究の成果は、驚異的な内容だったようだ。極めて正確な採譜で、リズムや調性・旋法なども、これ以上はないというほどキチンとまとめられていた。
現在では、彼が採譜してまとめた歌曲の数々や、独奏チェロと弦楽合奏のための《アルメニアの10の舞曲と民謡》、《ピアノのための舞曲》など、多くの作品がステージで演奏されたり、録音されたりしている。現在、アルメニアにある国立音楽院は、「コミタス音楽院」との称号が与えられているほどだ。
また、筆者は未見なのだが、1988年に、ドイツで『コミタス』なる、映像詩風の記録映画が製作されているらしい。彼の生涯を描きながら、虐殺されたアルメニア人へのオマージュとなっているとのことだ。
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コミタスの死(1935)から約30年後。アメリカ・デトロイトのある高校で吹奏楽指導をしていた1人のアルメニア系アメリカ人が、コミタスの音楽をもとにした吹奏楽曲の企画を思いつく。
その指導者の名前は、ハリー・ベギアン(のちに、イリノイ大学バンド・ディレクター)。作曲者として白羽の矢を立てられたのが、アルフレッド・リードだった。
(後編へつづく)
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