コラム第1回「《春の猟犬》と夏目漱石」
文:富樫鉄火(音楽ライター)
6月18日(金)に、横浜みなとみらいホールで開催される、シエナ・ウインド・オーケストラの第17回定期演奏会で、アルフレッド・リードの名曲《春の猟犬》が演奏される。この曲名から、皆さんは、どんな思いを抱くだろうか?
「懐かしいなあ、昔、よくやったり聴いたりしたよ」と感じる一方で、「何で、今ごろ、こんな古い曲やるの?」「何となく題名は知ってるけど、ちゃんと聴いたことはないなあ」という、若い方々も多いことだろう。
確かに、発表から四半世紀ほど経っているだけに、"古い曲"とのイメージを持つ方がいるのも仕方がない。だが、この曲には、単に"古い曲"だけでは片付けられない、それなりの歴史があるのだ。
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明治時代の後期、ロンドンに留学中の夏目漱石は、毎週火曜日、シェイクスピア研究家のウィリアム・クレイグ先生のもとへ個人教授を受けに通っていた。そのたびに、クレイグ先生から教わった作品を、帰りに書店に寄っては購入するのが日課だった。随筆『永日小品』によれば、漱石は、ある時、クレイグ先生に、著名な詩人スウィンバーンの新作詩を見せたという。先生は、それを数行読み、「あゝ駄目ゝゝスヰンバーンも、こんな詩を書く様に老い込んだかなあ」と言って溜め息をついたそうだ。昔のスウィンバーンは、もっと素晴らしかったらしいのだ。
そこで漱石は、スウィンバーンの若き日の傑作と呼ばれる劇詩『カリュドンのアタランタ』(1865年発表)を読んでみようと思い立ち、書店で購入する。それは、日記によれば1901年(明治34年)7月9日、クレイグ先生宅からの帰り道だった。漱石は、この作品がいたく気に入ったようで、何箇所かに傍線や書き込みを加えており、その現物が、今でも東北大学附属図書館に所蔵されている。
スウィンバーン(1837-1909)は、イギリスの詩人・評論家である。漱石がロンドンに滞在した頃は、そろそろ晩年で、創作活動も、それほど盛んではなかったようだ。
『カリュドンのアタランタ』とは、ギリシャ神話を題材にした戯曲で、全編のセリフが「詩」として書かれているので、一般に「劇詩」と呼ばれる。その冒頭部分の合唱詩(ナレーション役を兼ねたコーラス)がひときわ有名で、「春の猟犬たちが、冬が残した轍(わだち)の上を進む時、女神アルテミスが、草原や暗がりを雨音で満たす・・・」で始まる、実に美しい詩である
(つまり、『春の猟犬』という題名の詩があるわけではないので、ご注意)。
時は流れて1980年。アメリカで活躍中の作曲家アルフレッド・リードのもとへ、カナダのフォスター中学校シンフォニック・バンドから、委嘱作品の依頼があった。リードは、上述の詩をもとにオリジナル曲を作曲し、《春の猟犬?吹奏楽のためのコンサート用序曲》と名付けた。もちろん、すぐに世界中で大人気となった。
生き生きとした前半部、美しい旋律に彩られた中間部、そして、それらが渾然一体となってなだれこむクライマックス・・・・・・いま聴いても、少しも色褪せていない。演奏しても、聴いても、すべての人を感動させる、まさに、吹奏楽史に残る、名曲中の名曲である。
日本で最初に、この曲の魅力を広めたのは、福岡工大附属高校といっていいだろう。1982年のコンクール全国大会で自由曲に取り上げ、見事、金賞を受賞している。その時の指揮者は、現在、タッド鈴木としてアメリカで活躍している鈴木孝佳先生。そして同校は、その前年を含めて4年連続全国大会金賞という偉業を達成するのだ。
おそらくいまの若い方々は「え? この曲で全国大会金賞を取れる時期があったの?」と驚かれるだろうが、当時は、それほど新鮮で、それなりの技術を要求される曲だったのだ(もちろん、今だって十分新鮮だし、それなりの難度を持った曲である)。
ところで、リードは、けっこうスウィンバーンが好きなようで、《春の猟犬》の2年後、1982年にも、《プロセルピナの庭》という、同じ詩人の作品に基づく吹奏楽曲を作曲している。そして、これもまた、漱石が愛好していたことが分っている。この詩は、スウィンバーンの『詩とバラッド』第1集の中におさめられているのだが、同詩集も、漱石は本格的に精読し、研究しているのだ。
こうして見ると、19世紀末のイギリスの詩人の作品を、明治時代の日本の作家が愛好し、それが20世紀になってアメリカで吹奏楽曲になり、21世紀のいまもなお、日本のシエナによって演奏されていることになる。
「名作を伝える」とは、こういうことを指すのではないだろうか。
【参考資料】
飛ケ谷美穂子 『漱石の源泉/創造への階梯』(慶應義塾大学出版会)
Swinburne 『Poems and Ballads & Atalanta in Calydon』(Penguin Classics)
資料協力:東北大学附属図書館「漱石文庫」
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